昭和30年代に書かれた新聞・放送研究の本を読むのは楽しいなあ
いま1959年(昭和34年)に書かれた「”新聞・中日”物語」の「『中日』二つの謎- (1)部数がのびたわけ (2)これから、のびるか、減るか」を読んでいて、まだ途中なのだけど
その昔、祖父が言ってた言葉の答え合わせになっててびっくり
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なるほどね。中日新聞は東京新聞を買収する前に、独自で「東京中日新聞」を発行していて、これが産経新聞の販売店で売られていたんだ
そして産経新聞を立て直すのに中日新聞は役員を送り込んでる
その理由として産経は「かちあわない中日に助けてと頼み込んだ」と当時の本にも書かれていた
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戦前、中日新聞の前身のひとつである新愛知の傘下に東京の國民新聞があって、國民新聞は政府に恩を売った出来事があった
で、新聞統制によって大人気の都新聞と、新愛知傘下の國民新聞が合併させられて東京新聞になるんだけど
その恩返し(?)として名古屋から朝・毎が排除されたようなものなんだ
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そこで「東京以外・一県一紙主義」ということになるのだけど、それでは朝日が納得せず、北九州だけは「大陸進出の橋頭堡」という理由を考え出して、北九州だけ朝・毎を残すことで、名古屋の朝・毎排除を受け入れさせたと
だから戦後、福岡に「朝日放送」「毎日放送」という名の放送局がすぐできたと
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戦後、新聞統制自体は解除されるのだけど、紙の統制だけは続いたことで朝・毎の名古屋印刷復帰は1950年(昭和25年)2月
合併した新愛知と名古屋新聞の読者層が被っておらず、さらに朝・毎も止まったため、8年間、名古屋には中日新聞しかない時代があり、そこで驚異的な部数の伸びを実現したと
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この本が書かれた1959年(昭和34年)時点では、東京中日新聞は娯楽紙であり、中日はいずれ東京で一般紙を出すだろう「そのときにはもちろん『中日』のヤボな地名的題名はつけない」と予想されていました
それがかつての新愛知傘下の國民新聞の後身である東京新聞の買収という形になって実現すると
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ここからはこの本ではなく別資料から
ところが読売新聞が日テレパワーで全国で急激に部数を伸ばすようになると、今度は中日は朝・毎と手を組んで読売つぶしにかかると
関東で朝・毎は「中日傘下になった安い東京新聞」を読売読者にのみ売り込み、読売の部数を減らす作戦に出るのね
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一方で、名古屋の読売進出を中日・朝・毎が手を組んで阻止。読売新聞資本の日本テレビ系列局を名古屋に誕生させないように画策し成功
そのため現在でも、名古屋における読売新聞資本のテレビ局はテレビ朝日系のメ~テレであり、日本テレビ系の中京テレビは読売新聞資本ではないという状態のまま
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うちの祖父の口癖が「朝日毎日は(内容が)1日遅い」だったんだけど
実は名古屋で印刷される新聞が中日新聞しかなかった8年間も、朝・毎は大阪印刷で名古屋に運んで売っていて
その時にその祖父の口癖、「朝日毎日は1日遅い」が名古屋人に浸透してしまった…ということがこの本に書かれていました
訪れたのは東海北陸道・川島PAオアシスパークにある「かわしまファーマーズ」フードコートでした
3月にリニューアルオープンしてよりメニューの「岐阜色」がアップ!ナマズも食べられるようになりました
すごく昔の話になってしまうのですが、フジテレビの「母をたずねて三千里」の番宣CMの曲と、昭和末期の福井テレビの放送開始の音楽が一緒だということにさっき気づいたんですが、これってサントラなんですかね
サントラCDを当たってみたのですが見つけられませんでした…